小酒井不木について

小酒井不木(以下、「不木」)は,1890(明治23)年愛知県蟹江町の生まれで、本名は小酒井光次です。探偵小説史において、江戸川乱歩を見出したことで知られていますが、大正時代において医学者、翻訳家、文学評論家、探偵小説家、俳家という幅広い活躍をした人物です。

不木の生い立ちについては、不木自身による自伝1)、不木の長男である小酒井望氏の『父不木との思い出』2)、天瀬裕康氏の『小酒井不木論』3)等が詳しいので参照してみてください。

不木は、東京帝国大学医学部、大学院を卒業後、東北帝国大学医学部助教授に任命され、アメリカ、イギリス、フランスへ遊学しました。Journal of Immunology の Advisary Boardに名を連ねる等、免疫学・血清学で頭角を現していました4)。しかし、その遊学中に肺病を患い、1920(大正9)年に帰国した後は、東北帝国大学医学部教授に任命されていましたが、赴任することなく辞退することになってしまいました。

順風満帆にみえていた学者のキャリアは病気によって挫折することになりましたが、その後は文筆活動に邁進します。

文筆活動の最初は、探偵小説の啓蒙家として活躍し、主に研究随筆の執筆や探偵小説の翻訳を行っていました。研究随筆は不木の主な特徴が表れており、「毒及び毒殺の研究」「殺人論」「犯罪文学研究」等の傑作があります5)。また、探偵小説の翻訳では,ドイツ文化圏の作家、特に、S・W・ドゥーセやパウル・ローゼンハインを日本へ移入しています6)

その頃、雑誌「新青年」の編集長であった森下雨村から、江戸川乱歩の処女作「二銭銅貨」が翻案かどうか確認してほしいと依頼がありました。森下雨村は江戸川乱歩の作品は傑作であると認めつつ創作かどうか判別つかないため、探偵小説の知識を有する不木に依頼したということです。不木は優秀な創作であることを雨村へ伝えるとともに「二銭銅貨」には不木の推薦文が付されることになりました7)

その後、不木は探偵小説の創作も行うようになります。その作風は「不健全派」「変格」と呼ばれており、医学の限界や残酷さを主に描きました8)

これらの活躍の間も、肺結核患者として闘病を続けており、肺結核といかに付き合うべきか一般市民に向けて『闘病術』を執筆しています。この書は当時ベストセラーであったと言われ、「闘病」という言葉が一般に広まるきっかけとなったと言われています9)

しかし、活動期間はとても短く、39歳の1929(昭和4)年に急性肺炎で亡くなります。なお、死後、江戸川乱歩らによって全集が改造社から刊行されています。

参考文献

1)小酒井不木.自伝(小酒井不木全集第八巻).東京:改造社;1929.p.337-55)
2)小酒井望. 父不木との思い出. 別冊・幻影城.1978,16;296-9.
3)天瀬裕康. 小酒井不木論. (叢書 新青年 小酒井不木). 東京:博文館新社;1994.p.256-85.
4)追悼座談会. 新青年. 昭和四年;六月号:482-6.
5)中島河太郎. 日本探偵小説史 第一巻. 東京:東京創元社;1993.
6)長谷部史親. 欧米推理小説翻訳史. 東京:双葉文庫;2007.
7)中島河太郎. 日本探偵小説史 第一巻. 東京:東京創元社;1993.
8)谷口基. 変格探偵小説入門 奇想の遺産. 東京:岩波書店;2013.
9)門林道子. 「闘病記」の周辺 小酒井不木と『闘病術』物語 第1回:なぜ「『闘病』記」なのか. 臨床看護. 2013, 39(5); 758-9.